戸惑いも飲み込んで

 

◆5月23日(月)

 新しくお世話になるI社のマネージャーミーティングが、合宿というスタイルできょうあ
すと行われる。まだ社員という立場ではないのだけど、7月からの新年度の事業計画
に関わるということもあって、声をかけてもらえたのである。初日のきょうは朝9時から夜
11時半まで、びっしりのスケジュール。とにかく「はじめて」づくしで、頭はず〜っと知的
興奮状態がつづく。休憩のたびごとにミーティングルームの外に置かれたコーヒーを飲
まずにはいられないという感じ。


 まず、今回の合宿の趣旨の説明がある。その後、午前中いっぱいかけて、会社の今
後進んでいく方向性についてと、事業計画の説明がある。恥ずかしながら瞬時に意味
が解せない「カタカナ(英語)」用語がいくつもでてきてくる。おおよその想像はつくのだ
が、今さら人に聴けない。「ここまではみんな理解できたね? わからないことがあった
ら、持ち越さないでここで質問してね。」と言われるのだけど、単語がわからないのであ
って、全体の計画や方向性は理解できているのでと、手は挙げなかったが、冷や汗が
背中を流れるような思いがする。


 レジュメの端にメモっていたのだが、とりあえずこの資料は一旦回収しますということ
になったので、ちょっと焦る。あわてて別のシートに転記しておく。戻ったら調べなくち
ゃ。


 午後からはあたらしい人事制度の説明。人事制度といっても、チームを構成する個々
のメンバーをいかにキチンと評価するかということであったり、会社のDNAやミッションを
いかに的確に把握して、適正に遂行していくかということと受け止める。もちろん、これ
はじぶん自身にも係ることである。情実に基づくような曖昧な評価でなく、誰が見ても
納得のゆくような、本人も納得できるような仕組みを構築しようとしているところが、長
大硬直化した企業とは違うところか。


 この合宿で何より驚いたのは、みんながキチンとじぶんの考えを述べることだ。マネ
ージャークラスの人間が集まっているわけだから当然といえばそれまでだけど、これま
で関わってきた団体などのミーティングといえば、キチンとじぶんの考えを述べることの
ない人も多かったりしたので、これはとても新鮮だったし、刺激的だった。


 夕食後もまだまだつづく。当然のことながら、「お疲れさん」で、まぁ1杯ということもな
い。ここから深夜にかけてはコスト感覚を養うことと、企業活動(利益)の基本的な仕組
みの習得を目的としたゲーム(トレーディングゲーム)だ。最近よくある 、紙を切って図
形をつくり、それを銀行に売って利益を得るというゲームなのだが、今回のはコスト管
理のところに一工夫がされていて、楽しかったと同時に、興奮度も最高潮に達した。


 3人で1組のグループを作って競い合ったのだけど、それぞれの持てる資材と必要と
する資材とのやりとりをめぐって活発な取引が行われるのだが、2期1セットというこの
ゲームのルールがあるにもかかわらず、どのチームも1期目からの黒字化を目標とする
から、制限時間との闘いとなってしまった。終わってみれば、2期をいっぱいに使った収
支の見通しをキチンと立てればよかったということになる。そう、実際のビジネスにおい
ても、とくに新規に事業を立ち上げるとなれば、この感覚が大切になりそうだ。


 23時半すぎにようやく部屋に入る。今夜は、知的興奮冷めやらずという感じで、眠り
に落ちることができないかも・・・と思っていたのだけど、同室のOさんといろいろ話をし
ているうちに、脳の興奮も静まってきたのか、1本だけ空けた缶ビールが落ち着かせて
くれたのか、これで眠ることができそうだなぁ・・・と、時計を見たら1時半をまわってい
た。

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◆5月24日(火)

 朝は7時に起きだす。まだ眠っているOさんを起こさないようにと思いつつも、シャワー
を思いっきり使ったので起こしてしまった。あとから聴けば、きのうはあのあと食事に外
に出かけたメンバーもあり、それから帰ってホテルの中の24時間営業のジムで汗を流
したメンバーもあったらしい。いやぁ、さすがに若い!


 きょうもまた脳の消費カロリーがダントツ高いという1日。本日は「MBO」
(Management By Objectives through Self Control 自己統制による目標管理)の手
法を学ぶ。これも、きのうのチームを構成する個々のメンバーをいかにキチンと評価す
るかということと通じている。じぶん自身のMBOの評価ポイントを考えてみるのだけど、
売上額というような目に見える数字ではない仕事の中身を、ポイント(数値)としての評
価をするというのは、今までにあまり経験したことのないことなので、基準づくりにあた
まを悩ませる。これまで個人事業主だったのでとくに必要とされることなく過ごしてきた
ことを、きのうきょうでいくつ体験したことやら・・・。


 今後は、PL・BS・CFといった財務諸表も描きながら、グループをマネジメントしていく
ことも求められるスキルとなる。PLといっても野球が強い学校ではないし、BSやCFも衛
星放送やファイナンス会社のことではない・・・って、ダジャレで誤魔化したくもなる。損
益計算書・貸借対照表・キャッシュフロー計算書・・・もちろん、今までだって個人事業
主として、計数管理はしてきたし、決算も税理士さんに出さずじぶんでやってきた。で
も、青色申告なんてせいぜい現金出納帳に毛が生えた程度のもの。これら財務三表を
キチンと使って経営をしてきたかといわれると、正直うなだれるしかない。


 単に「化粧品業界」における経験(これとて大したものがあるわけではない)だけで
は、組織の中(グループマネージメント)ではやっていけないのだということを思い知らさ
れた2日間の合宿だった。何も知らない新卒社員ならともかく、キャリア組として求めら
れる資質のハードルは当然高いということだ。「井の中の蛙大海を知らず」ということわ
ざを帰りの新幹線で反芻する。「ほんとにやっていけるのかなぁ」という漠然とした不安
に襲われる。あと10年若かったら、からだだけじゃなく脳も柔軟に対応できたのになぁ
という思いにも駆られる。


 名古屋に戻ってくる前、夕方、合宿を終えてなお会社に戻って仕事をするというメンバ
ーと分かれて、池袋の不動産屋さんに出かける。来月下旬からのわたしのあたらしい
生活の場を決めるためだ。東京在住の知り合いからは、中央線荻窪周辺の物件もたく
さん紹介してもらっていたけれど、築年数が新しめであったり、駅から近かったり、間取
りがまぁまぁゆったりしていたりとなると、一応の予算枠を超えてしまう。「帯に短し、た
すきに長し」ということで迷っていたのだけど、2週間ほど前に下見をしてきた練馬の新
築物件に決めることにした。新築であるということが大きな要素だったけれど、地震に
強いといわれる工法で建てられている点、角部屋が取れたこと、そして8畳が確保でき
て、一応の予算内に収まったということが決め手だった。


 それにしても、賃貸の契約の時の説明ってほんとに長かった。細かく重要事項等の
説明を受けなくちゃいけないので、時間がかかるということはサイトなどで知っていた。
もちろん、いいかげんな説明では困るわけで、あとあとのためにもキチンとした説明を
受けることは大事だけど、宅地建物取扱主任者のHさんのほうが気の毒に思えてくるく
らい長かった。練馬区のゴミの出し方のルールやら、現地の収集日の説明もちゃんと
してくれた。でも、さすがに損害保険の定款は「お時間のあるときにご確認ください」っ
て言っていた。村役場の課長さんというような実直さがからだ中にあふれているという
初老の方でとても安心感を感じさせてくれて、はじめてのことだったけれど不安を感じ
ることなく契約ができてホッと一安心。

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◆5月25日(水)

 きのうは21時頃には名古屋に戻ってこられた。池袋は突然の夕立で驚いたが、名古
屋は一日いいお天気だったらしい。商品の発注やら閉店後の作業をしているうちに、あ
っという間に日付が変わっていた。帰りの新幹線ではたしかにちょっとへこんでいたの
だけど、妻に「合宿」の話をしはじめると、また、あの知的興奮が甦ってくるようだった。
だんだんと気分が高揚してくるのがわかり、得々と語っているじぶんがそこにいた。


 睡眠時間がじゅうぶんだったとはいえなかったのに、眠気が吹き飛んでいく。そんな
時、妻がぽつりという。「いいじゃん、人のお金でやりたいなって思ってたことができる
んでしょ。」そうなんだ! とってもすごいことなんだ! って気づかされる。要するに、じ
ぶんがやりたかったこと、やりたかったけれど実現できなかったことを、他人のお金を
使って実現しようとしていることになるのだ。ちっぽけな街の化粧品やさんでは叶えら
れなかった「夢」をだ。


 他人のお金を使うのだから、それには精緻な事業計画や計数管理の必要が生じる
のは当然と考えれば、あたまがウニになったとしてもしかたのないことだ。今まで、そ
んなことしたことなかったなんて言ってはいられない。それをクリアさえすれば、「夢」を
かたちにすることを、表現は悪いが「他人のふんどし」で実現できる。これって、すごく
ない? って、一夜明けたわたしはにわかに前向きだったりする。昨日茶化していたPL
(損益計算書)のにわか勉強をはじめていたりもする。


 こんなチャンス、そうそう転がっているわけがない。これを活かさないでどうする! そ
んな気持ちがまたまたわたしに元気を与えてくれる。


 きょうは閉店効果もちょっと「中だるみ」か、売上は大きくなかった。でも、いよいよきょ
うを入れて営業日は7日(今後の月曜日は臨時営業する)となり、お手入れに週に1回
という感じで定期的に通ってきてくださった方などには、「きょうが最後の・・・」というあ
いさつが加わったりする。いよいよなんだなぁという実感は少しずつ高まってきている。
しかし、妻はどうなのかはわからないけれど、不安や戸惑いが期待と意欲といったつぎ
のフィールドへの思いに変わったきょうのわたしは、淋しさを感じている間がないという
感じだ。


 あしたはふたたび東京。先週の月曜火曜に続いて、こんどは日帰りで化粧品組合の
情報システム関係の引き継ぎだ。前回、ほとんどの部分の説明を終えているので、今
回は疑問点・うまくいかなかった点などを総ざらいしてくることになる。合宿のために出
席できなかったが、きのう地元の名古屋と愛知県のそれぞれの総会も終わって、わた
しの入っていない新年度体制が正式に動き出している。広報紙の引き継ぎをお願いし
た方からは、第1稿が送られてきた。偉そうな言い方だけどよくできていたと思う。まだ
まだ彼の色がじゅうぶんにでていないけれど、徐々にそれも反映されてくることだろう。
迷惑をかけていることには間違いがないけれど、これでなんとか化粧品組合からは旅
立てそうだ。

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◆5月29日(日)

 さすがに閉店間際ということを痛切に感じはじめている。やっぱりここまでカウントダウ
ンが進んでくると、お客さまとのあいさつの腰の曲げ方も深くなり、後ろ姿を見送るとき
の胸のしめつけられるような思いも強くなってくる。私鉄の駅から勤務先への通勤路に
うちがあったことでご利用いただきはじめて、その後退職されてからも、わざわざ運賃
を払って電車に乗ってうちでの買い物だけにきてくださっていた方が、ぽつりとひとこと
「これで、笠寺で電車を降りることもなくなるわ」


 閉店でご迷惑をかけているのはこちらのほうで、ご贔屓さんには本当に申し訳ない気
持ちでいっぱいで営業しているのだけど、きょうは、逆にお客さまから「フルーツゼリー
の詰め合わせ」やら「お花」やらをいただいた。わたしにと日本酒の地酒を1升ビンでく
ださった方もあった。きのうは、単身先とうちとで使ってねと、お嬢さんと選んでくれた2
つのかわいい写真立てもいただいた。もう、ありがたすぎて言葉がでない。涙がこぼれ
そうになる。決してできのよい商売人ではなかったけど、これには「商売人冥利」に尽
きる思いがする。陣中見舞いにと鶏の唐揚げやら手羽先やらを持ってきてくれた化粧
品やさん仲間にも感謝。


 感傷にひたってばかりもいられないので、合間を縫って、あたらしいしごとのほうの新
年度事業計画における損益計算書(見込み)を作りはじめた。26日の日帰りの新幹線
往復の中では、ネットからダウンロードした「損益計算書」の資料でにわか勉強をした。
帰りの東京駅の書店では「決算書がおもしろいほどわかる本」という文庫本も買ってき
た。(文庫本というところがケチかなぁ?)でも、なかなかにして手強く一朝一夕には身
につくものではないなと感じている。


 あくまで計画だからといっても、実体の伴わない数字のロジックだけでは説得力がな
いのだけど、かといって、固く見積もりすぎても事業としての魅力に欠けてしまう。積極
性を持って目標は高く設定すべきという声もないわけじゃない。そのあたりのさじ加減
がむつかしい。しかも、他人のお金を使う(投資をしてもらう)のだし・・・。


 28日土曜日夕方、2日間悩んでいた事業計画とその損益計算書(PL)のざっくりとし
たものができあがった。まだまだ細かく詰めなくちゃいけないし、たぶん相当な添削が
入ると思うのだけど、叩き台となるものがだせてちょっと一息というところ。事業で収益
を上げるということは、かなり精緻な計画と、それに基づく行動力とスピードが求められ
るという「あたりまえ」のことを今さらながら思い知らされる。これまでの化粧品やさんの
仕事は自己責任という隠れ蓑があったので、ある程度(かなり?)アバウトでも成り立
っていたんだということに思いが至るのだけど、もう元には戻れない。


 土日は休みだろうから、週明けしか返事がこないだろうと思っていたディビジョンのオ
フィサーからのメールが日曜日の午後に届く。投資に対してあまり大きなリターンが望
めないPLなので、あれこれ背景の説明や言い訳めいたものをつけて送っていたのだけ
ど、彼の返事は、「PLもさることながら、やはり今回の事業に関しては、コンセプトが何
よりも肝だと思っています。」ということばからはじまっていた。


 「予想のPLは所詮は数字のお遊びだと考え、コンセプト確定を第一において進めて
いきましょう。従来の経験や思い込みにとらわれることなく、自由な発想で決して妥協
せず、がんばっていきましょう。」とも書かれていた。彼はわたしより軽くひとまわり以上
年下なのだけど、洞察力にはほとほと感心する。そして、情熱と行動力は、若さのなせ
るワザとしてもまぶしいくらいだ。まごまごしていられないなという思いもあるが、こうい
う勢いのある人たちの集まった会社で仕事ができるという幸せにはよろこびを禁じ得な
い。

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